社長ブログ/お役立ち情報

#065 “ 何者か ” より “ どう生きるか ”

今の立場上、浜松市内の様々な企業のエグゼクティブな方々とお会いする会合が非常に多い。
かなり稀にだが、「自分は何者か」で生きている人と出会う。大抵、名刺交換をしている先から「お前のような雑魚とは話をする気はない」と言う内心を感じ取ってしまい、笑顔をキープするのに苦労する。
しかし、人間が他人にモヤつく時は、潜在的に気にしている自分の中にある嫌いな面を他人に見た時だったりする。

「自分は何者であるか」

この問いは、ずっと人生の中心にあるように見える。
学生の頃は、何になりたいかと問われ、
社会に出れば、どこに勤めているのか、どんな役職なのか、どんな実績があるのかと問われる。
いつの間にか私たちは、「どう生きているか」より先に、「何者であるか」で自分を説明するようになる。

しかし、僕は強く思う。
人生にとって本当に大切なのは、「何者か」ではなく、「どう生きるか」なのではないかと。

もちろん、肩書きや役割を否定したいわけではない。
会社で働いていれば、立場はある。責任もある。
社会はある程度、役割でできている。
だが、それでもなお、その人の本質は肩書きよりも“生き方”に表れると感じる。

どれだけ立派な肩書きを持っていても、
日々の振る舞いに誠実さがなければ、その人の言葉は軽くなる。
逆に、派手なポジションになくても、
目の前の人に丁寧で、見えないところで責任を引き受け、
苦しいときほど他人を雑に扱わない人には、
静かな信頼が積み上がっていく。
そのような方と出会うと僕自身も尊敬の念を抱き、この人のようにありたいと思う。

人は、何者であるか以上に、どう生きているかで記憶されている。
少なくとも僕の記憶構造はそうだ。

「何者かになりたい」という焦り

私たちはなぜ、こんなにも「何者か」であろうとするのだろう。

それはきっと、社会がずっとそういうものだったからだ。
幼い頃から、点数や順位や評価で測られ、
大人になれば、学歴、会社名、給与、役職、実績、影響力で自分の価値を確認しようとする。
そして今は、SNSまでそれを加速させる。
誰がどんな成果を出したか、どんな場所にいるか、どれだけ支持されているかが、あまりにも簡単に可視化される。

すると人は、他人の人生を見ながら、自分の立ち位置を測り始める。
「あの人はあんなに活躍している」
「同年代なのにすごい」
「自分はまだ何者にもなれていない」
そんな焦りが、静かに胸の奥に積もっていく。

けれど、この焦りは厄介だ。
なぜなら、それは努力の燃料になることもある一方で、
自分の生き方を見失わせる力も持っているからである。

「何者かになりたい」という思いが強くなりすぎると、
自分はどんな人間でありたいのか、
どんな毎日を生きたいのか、
という問いが、後回しになる。
結果として、何かを追いかけているのに、どこにも辿り着けない感覚だけが残る。

それは苦しい。
なぜなら、「何者か」は外から与えられるラベルだが、
「どう生きるか」は自分の内側で選ばなければならないものだからだ。
私たちは、ときに、自分で選ぶ責任の重さから逃れるように、
“わかりやすい何者か”を求めてしまうのかもしれない。

何者かになっても、満たされない理由

実際、何者かになれたからといって、安心できるとは限らない。
むしろ、その先に別の苦しさが待っていることも多い。

役職がつけば、その役職にふさわしくあらねばならない。
実績を出せば、その実績を更新し続けねばならない。
評価されれば、評価を失う怖さが生まれる。
つまり「何者かになる」ということは、同時に「何者かであり続けなければならない」という緊張を背負うことでもある。

これは、かなりしんどい。
一度つかんだ肩書きや評価が、自分そのものになってしまうと、
失敗や停滞や弱さに耐えられなくなる。
本当は迷っているのに、迷っていると言えない。
本当は傷ついているのに、強い自分を演じてしまう。

そしていつしか、人は“生きる”より“維持・向上する”ことに力を使うようになる。
肩書きを維持・向上する。
期待を維持・向上する。
イメージを維持・向上する。
そのために、本来の感情や違和感を押し込めてしまう。

だが、そこに本来の自由はあるだろうか。
そこに、その人らしい人生はあるだろうか。

僕は、ここに大きな落とし穴があると思っている。
「何者かになりたい」という願いは、一見すると前向きに見える。
しかしそれが、他人の目の中で自分の価値を証明し続けるゲームになった瞬間、
人生は途端に息苦しくなる。

何者かになることが悪いのではない。
何者かになることだけが人生の中心になることが、苦しさを生むのだ。

生き方は、肩書きより日々に表れる

では、「どう生きるか」とは何か。

それは、壮大な理念でも、きれいな言葉でもない。
もっと地味で、もっと日常的なものだと思う。
どんなときに誠実でいようとするか。
自分より立場の弱い相手にどう接するか。
うまくいかないときに、誰のせいにするのか、しないのか。
急いでいるときほど、人を雑に扱わないか。
成果が見えない仕事にも、ちゃんと意味を見いだせるか。
自分が間違ったときに、認めることができるか。
そうした小さな選択の積み重ねの中に、その人の生き方はにじみ出る。

「どう生きるか」は、プロフィール欄には収まらない。
名刺にも書けない。
だが、一緒に働く人は、そこをよく見ている。

部下は、上司の言葉以上に振る舞いを見ている。
同僚は、その人が得をしたときではなく、損をしたときに何を選ぶかを見ている。
家族は、外での顔より、家での態度を知っている。
つまり、人は「何者か」で尊敬されるのではなく、「どう生きているか」で信頼される。

僕はそのことを何度も実感してきたし、現職になり実感を高めている。
立場があるから人がついてくるわけではない。
社長だから、部長だから、上司だから、従う・・・そんな関係は長く続かない。
結局のところ、「この人と働きたい」と思われるかどうかは、
その人が日々どんな姿勢で現場と向き合い、人と向き合い、責任と向き合っているかにかかっている。

肩書きは指揮命令権を与えることはあっても、信頼までは与えない。
信頼は、生き方の副産物だと思う。

組織もまた、「何者か」より「どう在るか」で決まる

これは個人だけの話ではない。
組織も同じである。

どれだけ立派な理念を掲げていても、
どれだけ制度が整っていても、
その会社が本当にどんな会社なのかは、日常の振る舞いに現れる。
一人ひとりの事情や痛みに想像力を持てるのか。
ミスが起きたときに、犯人探しをするのか。
忙しいときに人を雑な扱いをするのか。
言葉では“人を大切にする”と言いながら、実際には成果だけで人を見ていないか。
そうした場面にこそ、その組織の「どう生きるか」が表れる。

会社にもまた、人格のようなものがある。
そしてその法人格は、掲げた理想ではなく、繰り返し選んできた行動によって形づくられる。

僕は、強い組織とは、声の大きい人が勝つ組織ではないと思っている。
完璧な人だけが評価される組織でもない。
弱さや迷いを抱えたままでも、なお働き続けられる組織。
言えないことを抱え込ませない組織。
誰かの痛みを個人の問題と切り捨てたり、成り行きに任せない組織。
そういう場所のほうが、最終的にはしなやかで強い。

なぜなら、そこで問われているのは、
「お前は何者か」ではなく、
「私たちはどう生きるのか」だからだ。

この問いを持てる組織は、数字だけでは壊れない。
逆風の中でも、人が人として扱われる。
そして、それが最終的には、持続的な成果につながっていく。

それでも人は、「何者か」を手放せない

とはいえ、「何者か」を求める心そのものを、僕は否定出来ない。
認められたい。
価値ある存在だと思いたい。
誰かの役に立っていると感じたい。
そう思うのは、自然なことだと思う。

問題は、それが悪いことではなく、それだけで自分を支えようとすることなのだと思う。

肩書きも評価も、あっていい。
実績も承認も、得られたら嬉しい。
それ自体を無理に嫌う必要はない。
ただ、それを自分の土台にしすぎると、揺らいだときに全部が崩れてしまう。

だからこそ必要なのは、「何者か」で自分を固定しないことなのだろう。
僕は社長である前に、ひとりの人間である。
誰かの上司である前に、迷いながら生きる途上の一人である。
立場や役職は、自分の一部ではあっても、全部ではない。

そう思えるだけで、人は少し自由になれる。
失敗しても、肩書きが傷つくだけで人生が終わるわけではない。
迷っても、答えを持っていなくても、人としての価値まで消えるわけではない。
“何者か”を少し緩めたとき、人はようやく“どう生きたいか”を選び直せるのかもしれない。

何者かより、どう生きるか

人生の終わりに振り返るとき、
僕はきっと、自分がどんな肩書きにまで到達できたかではなく、
どんなふうに人と関わったか、
何を大切にしていたか、
何を守ろうとしたかを思い出すのではないかと思う。

苦しいときに、投げやりにならなかったか。
忙しいときに、大切な人を後回しにし続けなかったか。
弱い立場の誰かを見過ごさなかったか。
自分の利益より、守るべきものを守れたか。
その問いに、完璧でなくても、少しでも誠実に向き合ってきたと思えたなら、
それはきっと立派な人生だったと思えると想う。

「何者か」になれたかどうかは、時代や環境や運にも左右される。
だが、「どう生きるか」は、今日の自分にも選ぶことができる。
今この瞬間の言葉にも、態度にも、判断にも、それは宿る。

何者かになれなくてもいい、とは言わない。
なりたければ、なればいい。
目指したいものがあるなら、目指せばいい。
ただ、その途中で、もっと大切な問いを見失わないでいたい。

あなたは、何者かになろうとしているだろうか。
それとも、どう生きるかを選ぼうとしているだろうか。

もし後者を選ぶのなら、人生は少しずつ、しかし確実に変わり始める。
派手ではない。
すぐに評価されるわけでもない。
けれど、その変化はきっと、肩書きより深いところであなたを支えてくれる。

人は「何者か」よりも、
最後には「どう生きたか」でしか、自分を愛せないと思う。

筆者紹介:風を読む人事家

自動車業界で、人事etc.~海外子会社CEO~人事担当役員を経て当社へ。
人事・組織論の長年の実践知を、建設業のリアルな現場に注入し、組織と人の可能性を探究している。
一貫して向き合ってきたテーマは、
「社員の幸福感」と「経営へのインパクト」とを両立すること。
その問いに真正面から挑戦し続けている。

本ブログは開始当初から一貫して、毎週末に書き、毎週末に届けている。
激動の経営の中で見失いそうになる“自分”を、週末にそっと拾い直すための思索の記録でもある。

現場のリアルと人文知が交差する中で、
世の組織の中に潜む矛盾や不条理を鋭く、時に皮肉を交えて言葉にする。
もしあなたが、
「このままでいいのだろうか」と、ふと立ち止まったことがあるなら。
その言葉にしきれない違和感や揺らぎに、名前を与えるヒントが、ここにあるかもしれない。

2025年7月より当社代表取締役社長