社長ブログ/お役立ち情報
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#053 「俺はいいけどYAZAWAはなんて言うかな?」――“正しさ”を疑う力
SNSでこんな記事にとても共感した。
「本当に頭がいい人」の本質は、「常に、自分を疑っている人」
というもの。
世の中の変化の速さから、現状維持では退化に等しく、スピードを持って進化するための大前提だと常々思ってきた。
また「俺は本当に優秀だ!」とのぼせ上がったリーダーは、他人の幅広い意見を取り入れる余白が無いどころか、他人の意見を聞く気がないバイアスを組織に形成するため、組織はその人の幅でしか変化しない。
僕はそのSNSの記事を目にした際に2つの言葉が頭に浮かんだ・・・
「俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?」と
「メタ認知」のふたつ。
「自分を疑う」とは、何を疑うことなのか
“自分を疑う”という言葉は、時に自己否定と混同される。
だが僕がここで言いたいのは、そんな薄暗い話ではない。
疑うべきは、「自分の価値」ではない。
疑うべきは、自分がいま採用している解釈であり、
そしてその解釈を「当然の現実」として信じ込んでいる自分の構造である。
人は「出来事」そのものに反応しているようで、実際には、
出来事に対する“見立て”に反応している。
同じ言葉を言われても、傷つく人がいる。平気な人もいる。
同じ評価を受けても、燃える人がいる。折れる人もいる。
現実が違うのではない。
“現実の見方”が違うのだ。
「俺」と「YAZAWA」を分けるということ
ここで、矢沢永吉のあの言葉が効いてくる。
「俺はいいけどYAZAWAはなんて言うかな?」
この言葉が面白いのは、かっこよさよりも先に、
“俺”と“YAZAWA”が分離されている点にある。
“俺”は、その瞬間の感情や衝動の自分である。
一方、“YAZAWA”は、長い時間をかけて築いてきた物語であり、社会的な自己であり、矢沢永吉という人の「在り方」だ。
つまり彼はこう問うている。
いまの俺の判断は、
YAZAWAという存在として成立しているか?
これは、自分を大きく見せるための言葉ではない。
むしろ逆で、自分の暴走を止めるための言葉である。
“俺は優秀だ”と自分に憑かれたリーダーは、「俺」と「役割」を分けない。
分けられないから、反省ができない。修正ができない。
結果として、周囲の意見を取り込む余白が消えていく。
“メタ認知”とは「冷静さ」ではなく「距離」である
ここで出てくるのがメタ認知だ。
メタ認知とは、
自分の思考・感情・行動を、一段引いた視点から認識する力である。
ただし、誤解がある。
メタ認知は、感情を消す技術ではない。
理性的に正しく振る舞うための“メンタル筋トレ”でもない。
本質はもっとシンプルだ。
思考や感情と、自分を同一視しないこと。
怒りがある。不安がある。焦りがある。
それ自体は自然だ。人間だから当然だ。
問題は、それと「一体化」してしまうことだ。
怒りが“ある”ではなく、怒りに“なる”。
不安が“ある”ではなく、不安に“なる”。
メタ認知は、その同一化をほどく。
舞台と客席――選択の余白は、ここで生まれる
イメージはこうだ。
・舞台の上で演じている自分(思考・感情・衝動)
・客席からそれを見ている自分(メタ認知)
多くの人は舞台の上にいることに気づかない。
舞台の上の台本を「現実」だと思い込む。
でも客席に一度でも戻れたら、世界は変わる。
少なくとも「選択の余白」が生まれる。
あ、いま自分はこう解釈している。
あ、いま自分はこう決めつけている。
あ、いま自分は“正しさ”の剣を抜きかけている。
この気づきがあるだけで、言葉の刃は鈍る。
対話の可能性が戻ってくる。
人は「現実」ではなく「解釈」を生きている
ここまで来ると、ひとつの結論にたどり着く。
人は、現実に苦しんでいるのではない。
自分の解釈を現実だと信じていることに苦しんでいる。
そして厄介なのは、自分の解釈ほど疑いにくいものはない、ということだ。
なぜなら解釈は、本人にとっては“当たり前”だからだ。
当たり前のものほど、見えない。
見えないものほど、暴走する。
だからこそ、メタ認知は「正しさ」の暴走を止める装置になる。
その正しさは、本当に正しいのか?
その正しさは、いま誰かを追い詰めていないか?
その正しさは、自分の恐れから生まれていないか?
こうした問いが立ち上がる瞬間、
人はようやく「自分で選び始める」。
組織で起きているのも、同じことだ
この話は、個人の内省にとどまらない。
組織の現場で、毎日起きている。
例えば部下が遅刻を繰り返す。
そこで上司が瞬間的にこう判断する。
「やる気がない」
「だらしない」
「ナメている」
これらは事実ではない。解釈だ。
だがメタ認知が働かなければ、その解釈は“現実”になる。
逆に、メタ認知が一瞬でも働けばこう問える。
・いま自分は、何に反応した?
・何を前提に、そう断定した?
・別の仮説はないか?(体調、家庭、睡眠、通院、認知特性、現場配置…
・そもそも自分は「遅刻」に何を投影している?(自尊心?恐れ?秩序?)
この問いは、上司を弱くしない。
むしろ強くする。
なぜなら、人を裁く強さではなく、状況を見立てる強さが戻ってくるからだ。
“俺は優秀”のリーダーには余白がない。
だが余白がない組織は、学習できない。
学習できない組織は、変化の速度に負けていく。
現状維持は退化に等しい。
だからこそ、進化の前提として、
「自分を疑う」ことが要る。
「私はいいけど、ありたい私はどうだろう?」
ここで、矢沢の言葉が組織の言語に変換される。
「私はいいけど、社長としてはどうだろう?」
「私はいいけど、上司としてはどうだろう?」
「私はいいけど、我々の組織文化としてはどうだろう?」
「私はいいけど、この子達の親としてはどうだろう?」
この一文は、魔法ではない。
だが“暴走を止める構造”を持っている。
感情や衝動を否定しないまま、
自分の上位概念(役割・在り方・物語)から自分を見る。
それは、矢沢がやったことと同じだ。
そしてそれが、メタ認知の実装だ。
たった一つの実践:実況中継を入れる
メタ認知を鍛える方法はいくつもある。
だが最初の一歩は、驚くほど小さい。
自分の内側を“実況中継”するだけでいい。
・いま腹が立っている
・いま焦っている
・いま「正したい」が出ている
・いま「見下したい」が出ている
・いま「言い負かしたい」が出ている
・いま「置いていかれたくない」が出ている
感情を消さない。正当化もしない。
ただ名付ける。実況する。
名付けられた瞬間、
感情は“自分そのもの”ではなくなる。
客席が戻る。余白が戻る。
そして余白が戻ったところで、こう言えばいい。
「俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?」
——いや、
「私はいいけど、“自分の在り方”はどう言うかな?」
正しさよりも、余白を
正しさは強い。
だが正しさは、簡単に人を傷つける。
組織を強くするのは、
正しさの主張ではなく、
正しさを疑える余白だ。
「常に自分を疑う人」が本当に頭がいいのだとしたら、
それは才能の話ではない。性格の話でもない。
構造の話だ。
“私”と“役割”を分けられるか。
舞台と客席を行き来できるか。
解釈を現実だと信じ込む自分を、どこで止められるか。
「俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?」
この言葉は、かっこよさのためにあるのではない。
自分を守るためでもない。
他者を守るため、組織を守るため、未来を守るための言葉なのだと思う。
そして何より——
自分が、自分の人生を選び直すための言葉なのだと思う。
あなたがいま握りしめている「正しさ」は、
本当にあなた自身の意思だろうか。
「俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?」
あなたの中の“もう一人の自分”は、なんて言うだろうか。
筆者紹介:風を読む人事家
自動車業界で、人事etc.~海外子会社CEO~人事担当役員を経て当社へ。
人事・組織論の長年の実践知を、建設業のリアルな現場に注入し、組織と人の可能性を探究している。
一貫して向き合ってきたテーマは、
「社員の幸福感」と「経営へのインパクト」とを両立すること。
その問いに真正面から挑戦し続けている。
本ブログは開始当初から一貫して、毎週末に書き、毎週末に届けている。
激動の経営の中で見失いそうになる“自分”を、週末にそっと拾い直すための思索の記録でもある。
現場のリアルと人文知が交差する中で、
世の組織の中に潜む矛盾や不条理を鋭く、時に皮肉を交えて言葉にする。
もしあなたが、
「このままでいいのだろうか」と、ふと立ち止まったことがあるなら。
その言葉にしきれない違和感や揺らぎに、名前を与えるヒントが、ここにあるかもしれない。
2025年7月より当社代表取締役社長
