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#056 愛しているのになぜ傷つけてしまったのか——“正しさ”より先に失っていたもの

僕の人生の大半は、後悔はない。
大きなキャリアチェンジもした。大変さは桁違いに増したが、事業承継を成功させて社員を守り抜かんとするプロセスや環境は、次々迫りくるハードルが高い程、乗り越える度に自己効力感とそれによる幸福感は、もっと桁違いだ。
そう思えるのも、これまでブログ記事に記してきたような考え方や思考法に支えられていることが大きいし、キャリアコンサルタントとの出会いがその輪郭をさらに深めてくれている。

ただ、ひとつだけ、はっきりと大きな後悔が残っていることがある。
それは子育てだ。

もちろん、溢れるほどの愛情を注いできた。
我が子の幸せを願わなかった日は、一日もない。守りたかったし、導きたかったし、何より、健やかに育ってほしかった。

けれど、もし今のような考え方や思考法を、もっと若い頃に手に入れ、実践できていたなら。
きっと子どもたちに与えた影響は、もっと良いものだったのではないか。そんな思いが、今も胸に残っている。

そして厄介なのは、どれだけ思考法を学ぼうと、どれだけ自分を客観視しようと、子育てに関してだけは「それで良かったのだ」と割り切るところまで至れないことだ。
そう簡単に自分を赦せるほど、親としての時間は軽くない。

そんな自責の念から、本稿を書いている。

正しいことを言っていたはずなのに

子育てを振り返ると、僕は決して無関心な親ではなかった。
むしろ逆で、関心が強すぎたのだと思う。

ちゃんと育ってほしい。
困らないようにしてやりたい。
社会に出てから傷つかないように、今のうちに伝えておきたい。
そういう思いが、いつも自分の中にあった。

だがその思いは、ときに言葉として歪んで出る。

「何でそんなこともできないんだ」
「ちゃんとしなさい」
「いつまでそんなことやってるの」
「前にも言っただろう」

その場では、しつけのつもりだった。
親として必要なことを言っているつもりだった。
だが今振り返ると、あの言葉の多くは、子どものためである前に、自分の焦りの吐き出しだったのではないかと思う。

子どもの未来を思って言っているつもりで、実際には、自分の不安、自分の苛立ち、自分の「ちゃんとしてほしい」という願望を、そのまま相手にぶつけていただけではなかったか。

正しさはあったのかもしれない。
だが、温度がなかった。

そして多くの場合、人は「正しい言葉」そのものではなく、その言葉の奥にある感情の向きに傷つく。
親の言葉も、例外ではない。

I メッセージと Youメッセージ

I メッセージと Youメッセージという考え方を知ったとき、僕は少なからず衝撃を受けた。

Youメッセージは、相手を主語にした言葉だ。
たとえば、こんな言い方である。

(あなたは、)
「どうしてできないの」
「遅いよ」
「ちゃんと分かってるの?」

どれも、その場では“正しいこと”を言っているつもりだった。

一方、I メッセージは、自分を主語にした言葉である。

(お父さん/お母さんは、)
「心配しているんだよ」
「悲しかったよ」
「こうしてくれると嬉しいな」

違いは、ほんのわずかに見える。
だが、そこに宿る力はまるで違う。

Youメッセージは、相手を評価し、裁きやすい。
受け取る側は、内容より先に「責められた」と感じる。
すると心は閉じる。防御する。反発する。あるいは、黙る。

対して I メッセージは、自分の気持ちや願いを差し出す。
相手を断罪するのではなく、「私はこう感じている」と伝える。
そこには少なくとも、相手の尊厳を押し潰す力が宿りにくい。

もちろん、「私は」をつければいいという単純な話ではない。
だが少なくとも、主語が変わるだけで、言葉の向きは変わる。

この違いを、僕はもっと早く知っていたかった。

後悔の正体は、「言い方」ではなく「主語」だった

子育ての後悔というと、多くの人は「もっと優しく言えばよかった」と考えるかもしれない。
けれど今の僕は、後悔の本質は単なる言い方ではなく、主語の置き方にあったのではないかと思っている。

あの頃の僕は、子どもに何かを伝えようとしながら、実は「あなた」を主語にしすぎていた。
相手の行動を変えることに意識が向きすぎていて、自分の中にある本当の感情を十分に自覚していなかった。

本当は、こう言いたかったのかもしれない。

「(私は、)あなたが心配だった」
「(私は、)あなたが困る姿を見たくなかった」
「(私は、)うまく伝えられなくて苦しかった」
「(私は、)どう関わればいいのかわからなくて、焦っていた」

だが、それを言えなかった。
あるいは、言葉になる前に、命令や叱責にすり替わっていた。

子どもに伝わったのは、願いよりも圧力だったのかもしれない。
愛情よりも管理だったのかもしれない。
そう思うと、胸が痛む。

親は、子どものためを思って言う。
それは本当だ。
だが、「子どものため」と「自分の不安」が、いつの間にか混ざり合ってしまうことがある。
そして混ざったままの言葉は、しばしば、相手の心を置き去りにする。

後悔とは、過去の失敗そのものよりも、あのときの自分の本心に、今になって気づいてしまうことなのかもしれない。

なぜ親はYouメッセージに傾いてしまうのか

親だからといって、成熟しきった人間ではいられない。
むしろ子育てほど、人の未熟さがむき出しになる営みはないかもしれない。

仕事があり、生活もある。
時間も余裕もないまま、正解のない毎日が続く。

そのなかで、親は「ちゃんとした親でいなければならない」という見えない圧にもさらされる。
子どもをちゃんと育てること。
間違えないこと。
甘やかしすぎないこと。
放任しないこと。

そうした無数のプレッシャーのなかで、人はつい「早く伝わる言い方」「早く動かす言い方」に寄っていく。
つまり、Youメッセージである。

「何でやらないの」
「早くしなさい」
「だらしない」

これは、ある意味で効率の言葉だ。
短い。強い。相手を動かしやすい。
だからこそ、疲れているとき、人はそこに流れやすい。

だが、効率の言葉は、関係の言葉ではない。
その場は動いても、心は離れることがある。

そして本当に苦しいのは、そのことを親自身が、あとからちゃんとわかってしまうことだ。
子どもの表情。
沈黙。
目力の弱まり方。
返事の温度。

言葉にされなくても、伝わってくる。
それが、後悔として残る。

過去を責めるためにこの話を書きたいわけではない

ここまで書いておいて何だが、僕は「だから I メッセージを使いましょう」と、きれいにまとめたいわけではない。
そんな簡単な話ではないからだ。

人は、知っていてもできない。
わかっていても、とっさには出てこない。
I メッセージは、技術であると同時に、余裕の表現でもある。
余裕のないときに、それを常に選べるほど、人は強くない。

だから僕は、自分の過去を断罪したいわけではない。
ただ、それでもなお、後悔は後悔として残ると言いたい。

「仕方がなかった」で済ませたくない。
「みんなそうだよ」で薄めたくない。
愛していたからこそ、悔しい。
もっと違う関わり方があったのではないかと思ってしまう。
それが親というものなのだろう。

そしてたぶん、この後悔は、完全には消えない。
なかったことにするより、
抱えたまま生きるほうが、誠実かもしれない。

それでも、これからの一言は変えられる

過去の言葉は取り消せない。
子どもが幼かったあの時間も、戻ってこない。

だが、それでも思う。
変えられないのは過去であって、これからではない。

成人した今からでも、主語は変えられる。
「何でできないの」ではなく、
「お父さんは心配だなぁ」と言ってみる。

「ちゃんとしなさい」ではなく、
「お父さんは、君が無理していないか気になってるんだ」と伝えてみる。

あるいは、うまく言えなかった過去に対して、今さらでもこう言ってみる。
「あのとき、強く言いすぎた」
「本当は怒っていたというより、心配していた」
「うまく伝えられなくて、ごめん」

息子たちよ。お父さんは君たちと出会えて本当に幸せだ。

子育ては、幼い時期だけで終わるものではない。
関係は続いていく。
年齢とともに形を変えながら、それでも、親子のあいだには言葉が流れ続ける。

だから、遅すぎることはないと信じたい。
そうでも思わなければ、やりきれない。

子育ての後悔は、今の自分をつくっている

皮肉なことに、子育てへの後悔は、今の僕の対人観に少なからず影響を与えている。

人は、正しさだけでは動かない。
評価されると閉じる。
命令されると守りに入る。
理解されようとしたときに、ようやく少しだけ心を開く。

そんな当たり前のことを、僕はたぶん子育てを通して痛いほど知ったのだと思う。
そしてその学びは、家庭だけではなく、仕事にも、人との関わりにも、静かに滲んでいる。

相手を変えようとする前に、自分の感情に気づくこと。
正しさを投げる前に、願いの形にして差し出すこと。
その小さな違いが、関係を壊すこともあれば、守ることもある。

もし僕が、あの頃より少しだけましな言葉を使えるようになっているのだとしたら、
それはきっと、子育てで感じた痛みが、今も自分の中で生きているからだ。

それを愛する家族へはもちろん、愛する社員のみんなにも惜しみなく役立てたい。

その言葉は、どこへ届いていたのか

僕の人生には、大きな後悔はほとんどない。
そう言えること自体、ありがたいことだと思う。

だが、子育てだけは別だ。
愛おしかった。
大切に思っていた。
それでも、もっとうまくできたはずだ。

その小骨は、どれだけ時間が経っても、心のどこかに刺さり続ける。

けれど最近は、この後悔を、
「これからの誰かに向ける言葉を変えるための痛み」として持っていたいと思うようになった。

あのとき、言葉が届かなかった理由を、 僕はようやく理解し始めている気がする。
自分の不安をぶつけるのか、
自分の気持ちを差し出すのか。
その違いだ。

子育てに正解はない。

だが、もしこの後悔に意味があるとするなら、それはただ一つ、
これからの一言を、少しだけ温かいものに変えられるかもしれない、ということだ。

あのときの自分には戻れない。
だが、今日の一言は選べる。

それでもなお、ふと思う。
本当に、愛している相手にこそ、いちばん大事な言葉を手渡せているのだろうか。

筆者紹介:風を読む人事家

自動車業界で、人事etc.~海外子会社CEO~人事担当役員を経て当社へ。
人事・組織論の長年の実践知を、建設業のリアルな現場に注入し、組織と人の可能性を探究している。
一貫して向き合ってきたテーマは、
「社員の幸福感」と「経営へのインパクト」とを両立すること。
その問いに真正面から挑戦し続けている。

本ブログは開始当初から一貫して、毎週末に書き、毎週末に届けている。
激動の経営の中で見失いそうになる“自分”を、週末にそっと拾い直すための思索の記録でもある。

現場のリアルと人文知が交差する中で、
世の組織の中に潜む矛盾や不条理を鋭く、時に皮肉を交えて言葉にする。
もしあなたが、
「このままでいいのだろうか」と、ふと立ち止まったことがあるなら。
その言葉にしきれない違和感や揺らぎに、名前を与えるヒントが、ここにあるかもしれない。

2025年7月より当社代表取締役社長