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#037 想いは“言葉”で狭まり、“言葉”で世界が広がる――“伝わらなさ”の奥にある、解釈と余白の世界

はじめに

本稿で記すことは、“わかりの良い”社員が多数を占める大企業に居た時には想像もしなかった、自分が思う通りに動いてもらおうとするマネジメントスタイルの時にはわかる由もなかったことだ。 
数十名の強烈な個性が遠慮なくぶつかリ合い、伝わった確信を得るまで時間が掛かる現職だからこそ、それでも個々人の良さや持ち味を引き出そうとしている今だからこその貴重な気づきだと思う。

ある日、僕のブログを読んでくださっている方から、メッセージが届いた。 
読んだ瞬間から、心の奥底に波紋が広がったまま、まだ静まらない。

そこにあったのは、「言語化のジレンマ」という言葉だった。

“説明すれば伝わる”と思っていた

僕は長い間、人とのコミュニケーションについて、こう思っていた。 
時間をかけて誠意を尽くし、論理的に、網羅的に説明すれば、ほとんどのことは相手に伝わる――と。

相手にとって必要な情報を揃え、誤解が起きないように前提を揃え、相手が納得するところまで丁寧に言葉を重ねる。これは悪いことではない。むしろ仕事の現場では必要な技術である。だから僕は、それを「誠実さ」だと信じて疑わなかった。

けれど、その方の言う「言語化のジレンマ」に触れたとき、僕の内側で別の声がした。

――それは本当に「相手のため」だったのか。
――「伝えられる自分」「わかってもらえる自分」でありたいという、自分の欲望にすり替わっていたのではないか。

思い返せば、僕はどこかで「伝える能力」に自信を持っていた。誠意を尽くして説明できることが、相互理解を担保する、と。 
「言語化の能力」は強い武器だとも思っていた。分解し、整理し、抽象化して、再構成する。分かりやすい言葉に落とし込む。現場の混乱を鎮めるためにも、組織の摩擦を減らすためにも、言語化は役に立つ。だが、武器は扱い方を誤ると、相手も自分も傷つける。

「伝わる」は、送り手の努力だけで成立するものではない。 
むしろ、「伝わる」は受け手側で起こる現象だ。送り手がどれほど丁寧に言葉を重ねても、受け手の心が受け取らなければ、伝達は成立しない。なのに僕は、「説明の厚み」さえあれば越えられると、どこかで錯覚していた。

錯覚は、たいてい美しい顔をしている。 
「誠意」という名で、僕の自尊心を守っていた。 
そして僕は、それに気づかないまま、説明の輪郭を太くし続けていた。

聞き手には聞き手のコンテキストがある

僕は以前のブログでも「聞く側の感情とコンテキストが、解釈を握る」という趣旨のことを記した。

伝える側の努力は大事だが、それだけでは足りない。聞く側には聞く側の背景があり、価値観があり、体験の蓄積があり、今日の気分がある。つまり、聞き手は「聞き手の世界」を通してしか受け取れない。

僕はこれまで「言葉はできるだけ正確に、誤解の余地を潰すべきだ」と考えていた。だが、誤解の余地を潰したつもりでも、別の場所で解釈が生まれる。受け手のフィルタを通った瞬間に、言葉は別の色を帯びるからだ。

こちらの言葉は、相手の世界観の中にそっと“置かれる”だけなのだ。

届ける、伝える、理解させる。そういう能動の言葉を僕は好んできた。 
だが現実には、言葉は相手の世界に置かれ、そこで相手の経験や感情に触れて、別の意味として育つ。こちらが意図した方向に育つとは限らない。むしろ、こちらの意図とずれるのが普通なのだ。

この見地に立ったとき、僕の中で何かがほどけた。

僕が必死に作っていた「伝わるための完全な説明」は、受け手の世界に入り込む余地を奪っていたのかもしれない。 
つまり、僕は相手の理解を助けるつもりで、相手の解釈の自由を狭めていた可能性がある。

言葉は便利だ。 
しかし言葉は、便利すぎるがゆえに危うい。

「伝えた」という達成感が、いつの間にか「伝わったことにしたい」という自己満足へ滑っていく。

そしてそれは、悲観で終わる話ではない。 
言葉が相手の世界で育つということは、そこに「相手の人生」が必ず混ざるということだからだ。つまり、受け手の解釈は、受け手の尊厳そのものでもある。

「言語化のジレンマ」が照らした、言葉の不自由さ

その方は、翻訳や詩作の過程で出会う感覚として、こう語っていた。

想いを言葉に置き換えようとするたびに、表現が固定されてしまう感覚に出会うことがある。 
言葉にした瞬間、その感情は言葉以上でも以下でもなくなり、むしろ狭められてしまうように感じられる。 
しかし、言葉にしなければ、その思いは存在しなかったかのように消えてしまう。 
――この矛盾を「言語化のジレンマ」と感じている・・・のだ、と。

本来、感情は分析せず、そのまま味わうだけでいい。それでも、どうしても誰かに伝えたいとき、このジレンマが壁となって立ちはだかる。 
・・・とも。

その言葉は、「言葉の不自由さ」を、逃げずにただ見つめていた。 
正直にジレンマを語っただけだ。 
それなのに僕は、自分の姿勢を振り返らざるを得なかった。

言語化は、豊かな感情の海から一滴をすくい取って瓶に入れる作業に似ている。瓶に入れた瞬間、その一滴は「見える」ようになる。人に手渡しできるようになる。「共有できる」し「扱える」ということだ。しかし同時に、海ではなくなる。海の広がり、温度、深さ、うねりは、瓶の中に収まりきらない。

それでも僕たちは、言葉にする。 
誰かに伝えたいからだ。 
つながりたいからだ。 
消えてほしくないからだ。

つまり、言語化は「縮小」でもあり「保存」でもある。

言葉は、感情を救う。だが、感情を狭めもする。 
言葉は、他者とつながる。だが、自分の内側の広がりを削りもする。

この二面性が、僕たちの言葉をややこしくし、同時に豊かにもしている。 
この矛盾に耐えること。 
それが、言葉で生きる者の宿命なのかもしれない。

ここまで考えたとき、僕はようやく腑に落ちた。 
僕が信じてきた「説明すれば伝わる」は、瓶をたくさん並べれば海を渡せると信じるようなものだったのではないか。 
そんなことは起こり得ない・・・。

詩が教えてくれた、“余白”という自由

そのメッセージには、制作途中とされる詩が添えられていた。 

屋根裏の声   
          つきな


小さな鼓動が 重なりあい
震える温度が
暗闇に かすかな輪郭を灯す

赤い照明に、同じ歌声がゆれる
ワインは ただ、赤く

看板猫は、今日もひそやかに
一匹を仕留める


青白い月だけが 知っている

遠い歌声は  まだ とまらない

『屋根裏の声』つきな さん(制作途中)

僕はこれを読んで、言葉の別の側面に触れた。

一行ごとに景色が立ち上がる。音が鳴る。温度を感じる。空気の匂いがする。 
しかし同時に、景色が「確定しない」。意味が一つに固定されない。音も温度も匂いも、妄想が止まらない。 
詩とは僕たちが生きるこの世界の比喩という側面を持つとも聞いたことがある。

読み手に委ねられた余白の、異様なまでの広さに圧倒されている。 
詩というものは、解釈や想像の広範囲を読み手に委ねる表現なのだと知った。 
ここに、僕は世界観を見た。

言葉は本来、意味を定めるために使われることが多い。だが詩は、意味を定めきらない。 
むしろ「定まらなさ」を守る。そのことで、読み手の内側で何かが動き出す。

つまり詩は、言語化のジレンマに対する一つの応答でもある。

言葉にした瞬間、狭まってしまう感情。 
しかし詩は、狭まることを承知で言葉にしながら、その言葉に「余白」という呼吸を残す。 
読み手の人生が入り込むための空間を残すのだ。

だからこそ、詩は言葉を固定しつつ、言葉から解放された世界観を同時に成立させている。 
この二重性が、僕にはとても美しく見えた。

説明ではないのに、届く。 
決めつけないのに、触れる。 
確定しないのに、確かに残る。

僕はその豊かさに触れた途端、詩というものの魅力を、はじめて知った。 
そして、それは僕に新しい方向を示した。

「伝える」とは、相手を説き伏せることではない。 
「伝える」とは、相手の内側に“何かが起きる”可能性を置いていくことなのかもしれないと。

詩に添えられたその方のメッセージには「感想はいらない」とも記されていた。 
僕はその一言にも、言葉への誠実さを見た。作品を評価の対象にしない。読み手の解釈を急いで回収しない。余白を守る姿勢だ。

「伝わらなさ」は欠陥ではなく、前提である

今回の体験が教えてくれたのは、言葉の限界ではない。 
むしろ逆だ。言葉が不完全だからこそ生まれる豊かさである。

言葉は、完全に一致しない。 
解釈は、完全に揃わない。

そのズレによる「伝わらなさ」は、なくすべき欠陥ではなく、人間が人間である以上、避けられない前提だ。

僕たちはそれぞれ別の人生を生きている。 
見てきた景色が違う。痛みの記憶が違う。守りたいものが違う。 
だから同じ言葉を受け取っても、同じ解釈にはならない。

この差異を、僕たちは「誤解」と呼びたがる。だが、それは誤りではなく、多様性そのものだ。

大事なのは、誤解をゼロにすることではない。 
解釈が揺れる前提に立ちながら、それでも相手とつながろうとすることだ。 
そのとき言葉は、「理解させる道具」ではなく、「関係をつくる手がかり」になる。

だから僕は思う。 
論理の厚みで相手を包囲し「説明で詰める」のではなく、 
論理で隙間を埋めて誤解の余地を潰し、「相手の受け取り方を制御する」のでもなく、 
余白を残して、差し出し、相手の世界が入り込める場所を言葉の中に用意する。 
そのほうが、よほど誠実なのではないか――と。

僕がこれまで積み上げてきた説明は、相手の余白を奪っていた可能性がある。 
相手が自由に解釈する余地を、善意で埋め尽くしてしまっていた可能性がある。

それは「伝える努力」ではなく、「伝わったことにしたい欲望」だったのかもしれない。

言葉で世界を広げたい

言葉は、感情を狭める。 
だが、言葉は感情を生かす。

言葉は、誤解を生む。 
だが、言葉はつながりの手がかりになる。

言葉は、固定する。 
だが、言葉は余白によってほどける。

僕は今、その矛盾のただ中に立っている。 
そして矛盾のただ中に立ったまま、書き続けたいと思っている。

その方から受け取ったのは、知識ではなく、態度だった。 
言語化の限界を知りながら、それでも誰かに伝えようとする態度。 
言葉が固定することを知りながら、勇気を持って余白を残す態度。 
そして、読み手の解釈を急いで回収しない態度。

この体験をきっかけに、僕は「想いと言葉」「解釈と余白」について、記事にしたいとの衝動に駆られ本稿を執筆した。 
言葉の限界を嘆くのではなく、言葉が生み出す“ゆらぎ”と“つながり”を、自分自身の言葉で整理してみたくなったのだ。詩やエッセイ、日記とも違うブログという類の文章の世界で。

説明で世界を閉じるのではなく、言葉で世界を広げたいと思った。

僕はこれからも、説明してしまうだろう。癖のように。 
だがそのたびに思い出したい。

言葉は相手の世界観に“置かれる”ものだということを。 
そして、詩が見せてくれた「余白の広大さ」を。

あなたが今「伝わった」と思っているその言葉は――本当に相手の心に届いているだろうか。

それとも、相手の世界のどこかに“別の意味”として静かに置かれ、別の形で育ちはじめているのだろうか。

筆者紹介:風を読む人事家
自動車業界で、人事etc.~海外子会社CEO~人事担当役員etc.を経て、2024年当社へ。2025年7月より当社代表取締役。
長年培ってきた人事・組織論の実践知を、建設業のリアルな現場にも注入し、社員の幸福の追求と経営との両立に挑戦中。
人文科学を経営に注入した実践知を週末ブログにしたためて発信中。
業界や企業の枠を超えて、組織の中で「なんとなくモヤモヤしている」「思考が立ち止まってしまっている」——そんな働く人の心にそっと寄り添い、心が少し軽くなり、前に進むためのヒントとなれば幸いである。