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#071 「自分の性格」を解体せよ――その「性格」は本当に自分か?

「性格」でも「常識」でもない、私たちを形づくる癖

私たちは「性格」という言葉で、自分を理解しているつもりでいる。

自分はこういう性格だから。

そうやって自分を説明した瞬間に、何かを諦めてきたことはなかっただろうか。

・人見知りだから、踏み出せない
・心配性だから、挑戦できない
・慎重だから、なかなか決断できない

「性格」という言葉は、自分を理解するためには便利である。

けれど、その便利さによって、僕たちは自分自身を「変えられないもの」にしているのかもしれない。

そう考えると、ひとつの問いが生まれる。

僕たちが性格だと思っているものは、本当に自分そのものなのだろうか。

「性格」という言葉は、何を固定するのか

私たちは日常的に「性格」という言葉を使う。

あの人は明るい性格だ。
僕はネガティブな性格だ。
あの人は頑固な性格だ。

何気なく使っているが、この言葉の奥には、ある前提が隠れている。

性格とは、その人に備わったものであり、簡単には変わらない。

そんな前提である。

しかし、アドラーは「性格」という言葉をあえて使わず、こう呼んだ。

ライフスタイル。

日本語では「生活様式」と訳されるが、ここでいうライフスタイルは、服装や食事、生活習慣のことではない。

世界をどう見るのか。
他者をどう捉えるのか。
そして、その世界の中に自分をどう位置づけるのか。

そうした無意識の前提の集まりである。

言い換えれば、ライフスタイルとは、人生をどう読むかという「解釈の癖」なのだと思う。

僕たちは同じ世界を見ているのだろうか

同じ出来事が起きても、その受け取り方は人によって違う。

失敗したときに、

「やはり自分は駄目なのだ」

と受け取る人もいる。

一方で、

「まだやり方を知らなかっただけだ」

と受け取る人もいる。

起きた出来事は同じである。

それでも、そこから見える世界はまるで違う。

僕たちは事実そのものを生きているようでいて、実際には、自分が意味づけた世界を生きているのかもしれない。

そうであるなら、「自分はこういう人間だ」という認識さえも、絶対的な事実ではない。

それは、これまでの人生を通じて身につけた、ひとつの読み方に過ぎないのではないか。

「当たり前」は誰のものだろう

「常識」という言葉も気になってくる。

「普通はこうするよね」
「そんなの当たり前でしょ」
「常識的に考えれば分かるはずだ」

僕たちは、ときどき「常識」という言葉を使って、相手の考え方を測ろうとする。

けれど、その常識は本当に共通なのだろうか。

部下には厳しく接することが、その人の成長につながると考える人がいる。

まず相手の苦しさに寄り添うことが大切だと考える人もいる。

どちらかだけが常識で、もう一方が非常識なのではない。

それぞれが生きてきた経験の中では、どちらも自然なのだ。

ここに気づくと、「常識」の正体が少し違って見えてくる。

常識とは、誰にとっても共通する絶対的な答えではない。

自分の見方を、無意識に一般化したもの。

それを僕たちは「普通」や「当たり前」と呼んでいるのかもしれない。

正しさだと思っていたもの

思い返すと、若い時から、会社で様々な人と衝突もしてきた。

上司の考え方がおかしい。
会社のやり方が間違っている。
自分なら、もっと違うやり方をする。

もちろん、実際に納得できないこともあったのだと思う。

けれど、今の僕が振り返ると、当時の僕は、自分に見えている世界を「正しさ」だと思っていた。

自分の見方もまた、ひとつのライフスタイルに過ぎないとは考えていなかった。

自分が正しく、相手がおかしい。

そう考えている限り、世界は自分と他者に分かれていく。

けれど、相手にも相手の世界の見え方があると気づくと、対立の景色が少し変わる。

相手に同意する必要はない。

何でも許す必要もない。

ただ、その言動が、その人のライフスタイルの中では一貫しているのかもしれないと考えてみる。

それは単なる寛容さではない。

相手を理解するためだけでもない。

自分の正しさに閉じ込められないための態度なのだと思う。

私たちは「性格」に何を預けているのか

「性格」という言葉には、不思議な安心感がある。

自分は人見知りだから。
自分は心配性だから。
自分はこういう人間だから。

そう言ってしまえば、なぜそうするのかを、それ以上考えなくて済む。

挑戦しないことも、他者から距離を置くことも、同じ失敗を繰り返すことも、「性格だから」という言葉で説明できてしまう。

だから「性格」は、ときに自分を守ってくれる。

しかし同時に、自分の可能性まで閉じ込めてしまう。

それに対して、「ライフスタイル」という言葉には余白がある。

それが生まれつきの本質ではなく、生きる中で身につけてきたパターンであるなら、絶対に変えられないものではない。

もちろん、簡単には変わらない。

長い年月をかけて身につけた世界の見方は、決意ひとつで消えるものではない。

それでも、ライフスタイルは性格とは違う。

問い直すことができる。
選び直すことができる。
そして少しずつ、書き換えていくことができる。

この違いに、僕は希望を見る。

変化は、小さな違和感から始まる

人は、どのようにして自分のライフスタイルに気づくのだろう。

それは、人生を変えるような劇的な出来事からとは限らない。

むしろ、

「あれ?」

という小さな違和感から始まるのだと思う。

本当に自分は駄目なのだろうか。
この考え方だけが正しいのだろうか。
自分には、別の選び方もあるのではないか。

そんな小さな問いが、それまで疑うことのなかった見方に、ほんのわずかなひびを入れる。

そのひびから、今まで見えなかった世界が入り込んでくる。

僕自身、このブログを書き続けながら、何度も自分の考え方を問い直してきた。

以前なら疑わなかった自分の正しさを疑い、言葉にならなかった違和感に名前をつけ、過去の自分を別の角度から見つめ直してきた。

ブログに書いてきたのは、完成した答えではない。

僕のライフスタイルが揺れ、少しずつ形を変えていく過程そのものだったのかもしれない。

自分の「常識」を疑うということ

人とぶつかったとき、僕たちは反射的にこう考える。

相手がおかしい。
あの人は非常識だ。
なぜ、そんなことも分からないのか。

けれど、そこで一歩だけ踏みとどまってみる。

本当に相手だけがおかしいのだろうか。

自分が当たり前だと思っているものも、これまでの人生から生まれた、ひとつの見方ではないのか。

自分の見方のほうを疑ってみる。

それは、自分の考えを捨てることではない。

正しさを諦めることでもない。

自分の外側に、まだ知らない世界があると認めることである。

僕たちは自分の常識を疑った分だけ、他者の世界に近づくことができる。

そして他者の世界に触れた分だけ、自分が何を当たり前だと思っていたのかを知る。

他者を知ることと、自分を知ることは、きっと別々のことではない。

性格を超えて、自分と再会する

僕たちは、自分のことを知っているようでいて、実は、自分が採用している「見方」に気づいていないのかもしれない。

自分はこういう性格だ。

その言葉の内側に、いつから閉じこもっていたのだろう。

もし今、何かに縛られている感覚があるのなら、それは「性格」なのではなく、これまで身につけてきた世界の見方なのかもしれない。

そして見方は、問い直すことができる。

本当にそうだろうか、と。

その問いを持った瞬間、僕たちは、自分のライフスタイルからほんの少しだけ距離を取る。

距離を取るからこそ、今までとは違う自分の姿が見えてくる。

こんなことも考えられるのかもしれない。
こんなふうにも生きられるのかもしれない。
こんな自分も、いたのかもしれない。

そう思えたとき、何かが静かにほどけていく。

「新しい自分にならなければ」と力む必要はないのだろう。

変わるとは、自分ではない誰かになることではない。

これまでの「性格」という言葉の陰に隠れていた、まだ知らない自分に気づくことなのかもしれない。

もしかすると。

僕たちが人生の中で探しているものは、まったく新しい自分ではない。

「自分はこういう人間だ」と決めるよりも前から、ずっとそこにいた自分なのではないだろうか。


筆者紹介:風を読む人事家

自動車業界で、人事etc.~海外子会社CEO~人事担当役員を経て当社へ。
人事・組織論の長年の実践知を、建設業のリアルな現場に注入し、組織と人の可能性を探究している。
一貫して向き合ってきたテーマは、
「社員の幸福感」と「経営へのインパクト」とを両立すること。
その問いに真正面から挑戦し続けている。

本ブログは開始当初から一貫して、毎週末に書き、毎週末に届けている。
激動の経営の中で見失いそうになる“自分”を、週末にそっと拾い直すための思索の記録でもある。

現場のリアルと人文知が交差する中で、
世の組織の中に潜む矛盾や不条理を鋭く、時に皮肉を交えて言葉にする。
もしあなたが、
「このままでいいのだろうか」と、ふと立ち止まったことがあるなら。
その言葉にしきれない違和感や揺らぎに、名前を与えるヒントが、ここにあるかもしれない。

2025年7月より当社代表取締役社長

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