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#074 本当の自由は、「自分らしさ」にすら、執着しない。

五木寛之さんの『大河の一滴』を読んでいて、古代中国の『楚辞』に収められた『漁父』という物語を知った。

なぜだろう。

妙に頭から離れない。

最近の僕は、「自分らしさ」についてずいぶん考え、記事にしてきた。

人は、自分らしさから遠ざかるほど苦しくなり、自分らしさに近づくほど幸せになれるのではないかと。

他人の物差し。
世間の常識。
組織の同調圧力。
いつの間にか自分の性格だと思い込んでいるもの。

そうした、自分らしさを覆っているものを一つずつ解体していく。

それが僕のブログであり、キャリア支援であり、経営でもある。

もう、しばらくはこのテーマでの執筆は遠ざけようかなと思っていた。

ところが、2000年以上前の漁師が、僕の考えてきた「自分らしさ」の、その先にひょいと立っていた。

そして、こんな問いを突きつけてきた。

自分らしく生きようとすることさえ、いつか自分を縛ることがあるのではないか。

自分らしさに近づこうとすることと、自分らしさに執着しないこと。

この二つは、果たして両立するのだろうか。

濁った世界で、どう生きるか

『漁父』には、二人の人物が登場する。

一人は、古代中国の楚に仕えた政治家であり、詩人でもあった「屈原」。

もう一人は、川で舟を操る老いた漁師「漁父」である。

政治の世界から追放された屈原は、憔悴し、川辺をさまよっていた。

そこへ漁父が現れ、かつて高い地位にあった屈原に尋ねる。

なぜ、あなたはこんな姿になってしまったのか。

屈原は答える。

世の中は、みな濁っている。
しかし、私だけが清らかである。
人々は、みな酔っている。
しかし、私だけが醒めている。
だから私は追放されたのだ。

屈原は、世間に合わせて自分まで濁ることを拒んだ。

自分の信念を曲げて生き延びるくらいなら、孤独になっても構わない。

正直、僕は屈原に惹かれる。

「昔からこうだから」

「この業界では普通だから」

「みんなそうしているから」

僕は、そんな言葉にずっと違和感を持ってきた。

多くの人が従っているからといって、それが正しいとは限らない。

組織のために誰かが我慢することも、立場の弱い人が声をのみ込むことも、「仕方がない」の一言で片づけたくない。

世の中が濁っているからといって、自分まで濁る必要はない。

屈原の孤高には、危うさと同時に、抗いがたい美しさがある。

信念を守ることの、その先

しかし、漁父の考えは違う。

聖人とは、一つの考えに凝り固まることなく、世の中の変化に合わせて生きるものではないか。
世の中が濁っているのなら、自分もその泥をかき混ぜればいい。
人々が酔っているのなら、自分も酔えばいい。
なぜ自分だけが清らかであろうとして、わざわざ追放されるような生き方を選ぶのか。

そう問いかける。

最初に読んだとき、僕は少し引っかかった。

それでは、ただ周囲に迎合するだけではないのか。

おかしいことを「おかしい」と言わず、長いものに巻かれることと何が違うのだろう。

世の中に合わせて生きることは、僕が大切にしてきた「自分らしく生きること」と、正反対に見えた。

屈原もまた、漁父の言葉を受け入れない。

髪を洗ったばかりの人は、冠のほこりを払ってからかぶる。
身体を洗ったばかりの人は、衣服の汚れを払ってから着る。
それと同じように、清らかな自分を世俗の汚れに染めることなどできない。
それくらいなら、川に身を投げて魚の腹に葬られたほうがいい。

屈原は、そこまで言い切る。

水が濁っていたら、足を洗えばいい

屈原の激しい言葉を聞いた漁父は、反論しなかった。

ただ、にっこりと笑った。

そして舟を漕ぎながら、歌う。

滄浪の水が澄んでいるなら、冠の紐を洗えばいい。
滄浪の水が濁っているなら、足を洗えばいい。

そう言い残して、漁父は去っていく。

この「水が濁っているなら、足を洗えばいい」という言葉が、妙に頭から離れなかった。

漁父は本当に、屈原に「お前も濁れ」と言ったのだろうか。

そうではない気がした。

水が澄んでいるなら、冠の紐を洗う。

水が濁っているなら、足を洗う。

水を澄ませようとも、濁らせようともしていない。

水の状態に応じて、自分と水との関わり方を変えているだけである。

漁父は、世界のあり方に自分を明け渡してはいない。

かといって、世界を自分の思いどおりにしようともしていない。

水が清いか濁っているかによって、自分まで決められる必要はない。

そう言っているように思えた。

そして、もう一つ。

屈原は「清らかであること」を大切にしている。

しかし同時に、

「私は清らかな人間である」

という自分にも、強くこだわっている。

ここで僕は、自分のことを考えた。

「自分らしさ」も、執着になる

僕はこれまで、自分や人を縛っているものを「解体する」と書いてきた。

「普通はこうだ」
「こうあるべきだ」
「自分はこういう性格だから」

そんな思い込みを一つずつ取り除けば、少しずつ自分の感覚に近づいていける。

その考えは、今も変わらない。

問題は、その先だった。

余計なものを剥がしていくと、

「僕はこういう人間だ」
「これが僕らしい」

というものが見えてくる。

ところが、それを大切にするあまり、

「こんなことをするのは僕らしくない」
「これは自分の価値観とは違う」

と、今度は自分で自分に境界線を引き始める。

「自分らしく生きたい」が、「自分らしくあらねばならない」に変わる。

せっかく他人につくられた自己像を解体したのに、今度は「自分らしさ」という新しい自己像に閉じ込められてしまう。

それなら、固めなければいい。

解体しなければならないような「自分」を、わざわざつくらなくてもいい。

漁父の言葉から、そんなことに気づかされた。

大切にする。でも、握りしめない。

だからといって、何も大切にせずに生きるということではない。

今の自分が大切だと思うものは、大切にすればいい。
譲れないものには、真正面から向き合えばいい。

ただ、それを永遠に変わらない「本当の自分」にしない。

人と出会い、失敗し、傷つき、感動する。

そのたびに、

「これは大切にしたい」

と気づくこともあれば、

「あれほど大切だったけれど、今はもう違う」

と手放すこともある。

大切にする。でも、握りしめない。

自分らしさとは、守り抜くべき完成品ではなく、世界や他者との関係の中で、その都度現れてくるものなのだと思う。

信念は持つ。自分には固執しない。

そう考えると、屈原と漁父のどちらかを選ぶ必要もなくなる。

世の中が濁っているからといって、自分まで濁らない。

「みんなそうしているから」という理由だけで、自分の違和感をなかったことにしない。

その意味では、僕の中に屈原は必要である。

でも同時に、

「自分はこういう人間だ」

という自己像にも固執しない。

水が澄んでいるなら冠の紐を洗い、濁っているなら足を洗う。

その意味では、僕の中に漁父も必要である。

信念は持つ。

けれど、信念を持つ自分には固執しない。

この一見矛盾した場所に、僕は自由というものを感じる。

自分らしさの、その先へ

僕はこれからも、自分らしさに近づいていきたい。

ただ、辿り着いた場所を、

「これが本当の自分だ」

とは決めない。

また景色が変わったら、歩けばいい。
水の流れが変わったら、その水との関わり方を変えればいい。

自分らしく生きる。
けれど、「自分らしさ」には執着しない。

そしていつか、

「自分らしく生きよう」

と意識することさえなく、ただ自然に生きられるようになる。

水が澄んでいる日は、冠を洗えばいい。
水が濁っている日は、足を洗えばいい。

「自分らしく」という言葉さえ必要なくなったとき、人は本当の意味で自由になれるのかもしれない。

筆者紹介:風を読む人事家

自動車業界で、人事etc.~海外子会社CEO~人事担当役員を経て当社へ。
人事・組織論の長年の実践知を、建設業のリアルな現場に注入し、組織と人の可能性を探究している。
一貫して向き合ってきたテーマは、
「社員の幸福感」と「経営へのインパクト」とを両立すること。
その問いに真正面から挑戦し続けている。

本ブログは開始当初から一貫して、毎週末に書き、毎週末に届けている。
激動の経営の中で見失いそうになる“自分”を、週末にそっと拾い直すための思索の記録でもある。

現場のリアルと人文知が交差する中で、
世の組織の中に潜む矛盾や不条理を鋭く、時に皮肉を交えて言葉にする。
もしあなたが、
「このままでいいのだろうか」と、ふと立ち止まったことがあるなら。
その言葉にしきれない違和感や揺らぎに、名前を与えるヒントが、ここにあるかもしれない。

2025年7月より当社代表取締役社長

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僕がなぜ経営を続けるのか、
なぜ人と組織について書き続けるのか。
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#068 組織の力は「異物」から生まれる――ド素人の僕が信じ続けること

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#066 「表象」の世界で、誠を尽くして生きる

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